奈良県宇陀市の宇陀松山地区は、江戸から昭和にかけて建てられた町屋が数多く残り、歴史的景観を体感できる町です。 今井町、五條新町と並んで重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている宇陀松山の町を詳しく紹介します。
応仁の乱の大きな原因となった畠山氏家督を巡る争いは、南北朝争乱以降の抗争の図式が残る大和を中心に起こりました。 大和国内での戦乱を中心に応仁の乱に至る経過をわかりやすく解説します。
奈良県宇陀市の宇陀松山城は、奈良県下では郡山城、高取城とならぶ近世城郭でした。 もとは在地国人・秋山氏の詰城でしたが、伊勢街道を抑える豊臣政権の拠点として近世城郭として大規模拡張されました。 しかし、1615年に大坂の役で豊臣方への内通を疑われ…
大和永享の乱は幕府方筒井氏の勝利で終結しました。 しかし乱後間もなく嘉吉の変で将軍・足利義教が暗殺されると、義教によって失脚していた各地の実力者が復活。 大和でも筒井氏出身の成身院光宣と一時将軍・義教によって失脚していた経覚が、興福寺の権益…
戦国時代、筒井氏の重臣であった井戸氏が本拠とした井戸城は、幾度も大和の戦国史における重要な戦いの舞台となり、史料上に頻出する城郭でありながら、廃城後どこにあったのか現在では判然としない幻の城郭になっています。 その有力な候補地となる奈良県天…
鎌倉時代末期から南北朝時代を経て興福寺の支配を脱していく大和武士の姿をご紹介します。 鎌倉時代末から大和国内では興福寺の両門跡寺院の争いが激化して寺門の権威が失墜する一方で、南北朝の争乱を通じて衆徒・国民たちは興福寺からの自立し、幕府・北朝…
奈良県域の大和国は中世興福寺が治めたことで知られ、鎌倉、室町を通じて守護が置かれませんでした。 しかし、他国同様平安時代の後期には武士が出現しており、大和の武士たちは興福寺によって組織化されていきました。 なぜ興福寺が中世大和の支配権を握っ…